3時間は必要でした「ビル・ヴィオラ−はつゆめ」展。

なんで展覧会って最終日ぐらいに行ってしまうのでしょうね。しかも残り1時間ぐらいで入場するとか。なめてかかりすぎですよね。
というわけで、メインの「はつゆめ」は満員で見られませんでした。反省しきりです。知り合いにであったのですが「はつゆめは良かったですよ」と言われて悔しさ倍増。
そんな私が感想を言うのもあれなんですが、その他の作品だけ見て思ったのは、「身体」ってものを意識させられる、ということですかね。業火に焼き尽くされたり瀧のような水に穿たれたりして消える男(しかしこの炎と水はなんて似ていることでしょう)や水に映った自分とまるで同化するような人の映像に、身体の脆さ儚さを見せられたかと思うと、「何か」を見て驚き悲しみ驚愕する人々に、心の入れ物としての身体(筋肉の動きで表される「表情」や「仕草」で心を露出する装置である)を感じさせられます。上手く言えませんが、「箱」としての「身体」、と書いてしまうと「じゃあ体には意味がないのか」となりそうなもんですが、そうではなくて、その「箱」の重要性、ひいては「箱」から「身体」になるための何か、そういうものが感じられたような気がしました。
あと関係ないんですが岡崎京子の「ヘルター・スケルター」の冒頭で「笑いと叫びはよく似ている」という言葉があったと思いますが、超スローモーションで言葉も無く流れていく人の表情を見てこの言葉を思い出しました。あ、「cry」って考えると「笑い」と「泣き」もよく似てますね。
ビデオインスタレーションなんて家で見ればいいじゃない、と思っていましたが無理ですね。展覧会で見る映像作品の意味を感じました。兵庫県立美術館みたく新しくて天井高いところは特にこういうのに向いていますね。