こっ恥ずかしく痛々しいけど森見登美彦「太陽の塔」。

雑誌やなんかで京都特集されてたら「けっ、お洒落ぶってんじゃないわよ」とか思って読むことが出来ません。そのくせ京都に行ったらそういうのに載ってる店で買い物してしまい、「別に雑誌に載ってたからって買うわけじゃないです、お母さんが金平糖食べたがってるだけなんです!」とか心の中で言い訳しながら買います。なんだこれ、京都ツンデレか私。
まあそんなこんなで、私の中で京都というのは非常に微妙な、というか繊細な位置を占めております。きっとこの先どの街にもこんな気持ちにはなれないでしょう。それは初めて親からも離れて大学時代というもう時間の無駄で無駄で仕方ないところを消費した場所だから、でしょうかね。
そんな私ですので、森見登美彦さんの小説も「いやー、京都のしかもあの界隈が舞台かあ…どうなのかねえ…」とツンデレっぷりを発揮してなかなか手を出せてなかったのですが、手を出してみると、こりゃすごいね。ほぼ同い年で同じ県出身で同じ街で学生時代過ごした人間としてかなりシンクロしてしまいました。もうデレですデレ。デレ全開で感想書いてしまいます。
いましたよね、こういう男汁な奴ら。やたら賢げな言葉使って中身は果てしなく実りのない話をしている、そしてその話をしている自分達に変な誇りもっているの。偉そうなのに小心で、卑屈なのにプライド高くて、異性に興味あるくせに「付き合えないんではなくて付き合わないんだ」みたいな顔してて。男汁組の人たちは絶対全員チェックのネルシャツ着てるんだろう。飾磨のクリスマス演説を大学の友達と一緒に読んで、「あーいたねえこういうこと言ってる人…」と遠い目になりました。
しかし私はこの男汁野郎たちが大好きだ。実際話したら、二人までだったらまともに話できるのに、3人寄れば文殊の知恵だかなんだかで小難しい言葉で煙に巻かれて非常に腹が立ちそうなんですが、それでも変にモテようと頑張ってる人の100倍好きだ。もう死ぬまで鬱屈していてくれ。その鬱屈のエネルギーの溜まった感じがきっと百万遍元田中で修学院なんだ。
で、そういう哀し愛しな男の鬱屈妄想に終始するのかと思いきや、ラスト6ページで一気になんとも美しい恋愛物語になって思わずぐっときてしまいました。この水尾さんの描写。そんなこんなな水尾さんのそんなこんなところすべてへの恋心が痛々しくて。夜の中で、朝に向けて、泣くがいいさ。むしろ私が泣くよ。
で、このお話が日本ファンタジーノベル大賞なんですね。いいチョイスしますね、ファンタジーノベル大賞。で、どこがファンタジーか、というと、まあ「私」の妄想部分とか水尾さんの夢部分とか、なんだろうけど、「ええじゃないか」までいって、もしかして遠藤って「私」のやりなおしたい幻影なんじゃないか、それどころか水尾さんも実際出てこないし、本当は幻想なんじゃないか、それどころかもう男汁もまなみ号も太陽の塔も全部妄想のなかで、私はずっと叡山電車に乗りっぱなしなんじゃないか、なんてちらっと思ってしまったり。しかし最後の恋心が綺麗すぎたからこいつを幻にはしたくないのでその考えは否定します。少なくとも水尾さんはいたんだ。と思いたい。
にしても、多かれ少なかれ、恋愛なんてファンタジーなんでしょうね。と、この週末大学の友人たちに会ってきて、全員彼氏彼女いなくて、「どうやったら恋に落ちられるのだろう…」と(私含め)全員異口同音に呟いている様を見て思ったり。いや、それよりなにより、あんなに世の中のためにならない無駄な時間過ごしていたっていうこと自体がファンタジーなんじゃないか、とか陳腐にまとめてみたり。ああ私も夜明けの叡山電車に乗りたい。修学院の森突き抜けた私の夢の世界はきっと大学時代の京都の風景、この物語そのままの風景のはずです。
そんなことを考えているうちに、現実世界では誕生日なんてものがやってきて、私は一つ歳を重ね、またあの世界から一歩遠ざかるのでございました。